昭和57年7月18日 月次祭
中村良一
夕食の時でございましたが、孫にあたります、恵城と言う、小学校二年生がおります。この頃、私が、食事をあんまり頂きませんから、僕が行くと、お爺ちゃんが御飯が美味しいと言うから、もう、必ずあの、お食事の時にはやって来ます。もう、遅くなると、遅うまで待って、一緒に食事をしてくれます。そして、色々とお話をしてくれるんです。
今晩、こういう事を言うんです。お爺ちゃん、僕は、最近、気が付いた事なんだけれども、ね。おかげに気がついたち言うんですよ。どげなおかげに気が付いたかち、私が申しましたら、考えてみると、二年生になってから、まだ、一回も、お父さんからも、お母さんからも、叱られてないという事に気が付いたち言うんです。お父さん、お母さんが寛大になったという事ではなくて、そら、お父さん、お母さんの言うことを聞くから、怒られなかったんだろうねと言うて、お話聞きながら、思ったんですけれども、ね。信心も、やっぱり、そうです。ね。例えば、ほんなら、小学校の子供、さぁ勉強はしたか、悪い事はしてはいけんぞと言うのに、悪い事をしたり、言うても言うても勉強せんから、何時も小言が出るのであったり、また、怒られたりするのです。ね。今日は、私が、恵城が言うことを聞いてね、勉強もする、言うことも聞くなら、言い様がない。それこそ、まぁおかげは頂き通しに頂いていけることであろう。今朝からの御理解を思うて、それを、まぁ、いっそう感じたことでございます。どうでしょうか、皆さん。ね。
世界中の氏子に、おかげはやってあると。受け物が悪ければ、おかげが漏るぞと仰せられます。これは、今朝の御理解ですね。神の言うことは、途中で落としてしもうて、自分の良いようにして、神を恨むような者がある。十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出さねばという風に教えられます。ですから、私共が、ほんなら、どういう受けものを以ってしたら、一番素晴らしいことになるかと。どういう受けものを作らせて頂いたら、まぁ、いうなら、水も漏らさんおかげになるのであろうかと。ね。結局、私は、親の言うことを聞くことだと。勉強せろと言わんでも勉強することだと。言うことを聞くことだと思うです。ね。言うことを聞くと、先ほど、池田先生がお話をしておったように、先ずは、自分自身が助かることなんだ。ね。自分が、いうならば、助かりたい、助かりたいでは、助かりようが無い。助けてくださるのは、神様なんだ。してみると、神様の言うことを聞かなければ、助けてくださらんという事になるのです。ね。一事が万事に、有難い有難いと御礼の言えれる。ところが、実際問題としては、有難い有難いと言えないところもありますけれども。ね。
私は、今日も、まだ、本当ではございませんけれども、二日間ほど、大変、身体が悪くて、難儀を致しました。昼の御用はご無礼して、もう朝の御用だけでという様な事になりましたが、それでも、やっぱり、朝の二時半、三時前になると、目覚ましのおかげを、目覚ましと言うが、一日などは、とうとう眠りませんでした。もう身体中が、こう熱があるようで、何にも出来ない。ね。それでも、やっぱり、御神前に出て、神様にお礼を申させて頂くわけですけれども、実感として、なかなか、お礼は申されません。けれども、私共は、何時も修行という事を、心に掛けておるのです。夕べも、一睡も出来んようにございましたけれども、結構な修行をさせて頂いて、有り難うございましたと。それも芯から有難いとは、有難い心は生まれてきませんけれども、やはり、修行として、神様にお礼を申させていただいた途端でした。もう途端、もう、突き上げてくるような感動が湧いてくるのです。ね。お前を苦しめておるのじゃない、ね。修行をさせておるんだと。それが本当だから、本当な事が、例えば、分かるところに、神様が感動を送ってくださる。
皆さん、例えば、はぁ今日も、術ない一日であった。どうして、こんな苦労が、何時までも続くだろうかと言うなら、やっぱり、何時までも苦労は続く、または、苦労が苦労で終わってしまうんです。けれども、信心させて頂くと、いわゆる、修行ですから、今日も、結構な修行をさせて頂きましたと。いうならば、御礼を言わせて頂くところに、ね。その神様が、それを、苦しかったろうけれども、苦しい修行として受けてくださった。
御神願に、あの、きない西瓜を、こう一切れ頂きました。西瓜といや、西瓜の行とこう言われますね。火の行、水の行も厭わんと言うような、あの、お知らせのときに頂くのですが、何時もその、真っ赤な西瓜を頂くんですけれども。きなの西瓜がありますね。こう、アイスクリームかなんかと言いよった。ね。だから、私のこの、心の中に、一晩中、眠られんで、苦しんだという事がです。もう本当に、心から、それが有難いとは思えなかった、苦しかった。苦しかったけれども、やっぱり、それを修行として御礼を申し上げた途端に、神様が下さるのは、突き上げてくるような感動であった。皆さん、日々、やっぱり、苦労はあるのです。この世は苦の世、苦の世界とさえ言われるのですから、やはり、思い方では、苦しいことのみなんです。けれども、信心をさせて頂いて、信心の稽古をさせて頂く者は、修行なしに稽古が出来るとは思われませんから、今日も、結構な修行をさせて頂いてと、言うならば、御礼で終わって行かなければいけません。神様は、それを修行として受けてくださる。ね。
きなの西瓜と言うのは、いわゆる、真っ赤な西瓜が、まぁ熱情的な、ね。燃ゆるような心の状態の時には、はぁ本当は、どんな時であっても、もう本当に、たぎるような喜びがあるもんです。これは、私の修行中の時分には、今から考えてみると、それこそもう、これが苦労の真ん中と言うような修行が続きましたけれども、ね。一日終わらせて頂いて、御神前に額づかせて頂くと、もうそれこそ、とにかく、今日も結構な修行をさせて頂いたという事が、実感で、有難いとこう御礼が申し上げられました。ね。燃えておる、熱情的な信心。今が苦労の真ん中で、今が修行の真ん中という様な時には、そういう心にもなりますけれども。ほんなら、痛い、苦しいという時には、ほんなら、私の場合、心から、有難いとは思えないのですけれども、神様、修行させて頂いたという事は言えれる。皆さんでもそうです。ね。有難くはならなくても、今日、苦しいことであったならば、苦しいことだった、辛抱のしきれない様な事もあったけれども、そこを、じっと辛抱させて頂いて、結構な修行をさせて頂いたという事になる。ね。修行で受けて頂かなければ、信心させて頂いておる値打ちがない。ね。そのままで終わったんでは出来ません。そういう受け方をさせて貰いますと、一日が、ね。有難い一日という事になりはせんでしょうか。
今日、午前中に、行橋の連中が、行橋支部の人達が、お参りをしてまいりました。まだ、二三回か、四回かしか参ってきません。仕事の何かを始めたい。先だってから、お豆腐やさんを始めると言うて、お届けをしてあった。初めて、おかげで豆腐が出来た。今日は、おからのお供えで、はじめて今日は、おからを持ってきた。この次には、豆腐ば持ってきますからと。揚げ豆腐と、沢山、お供えを持って、ね。だから、とにかく、親先生が仰ったように、もうとにかく、お客さんに喜んで頂く豆腐を作らせてくださいと言うて、あの、おかげを頂いておりますと言うのです。おかげを頂く人は違うなぁと思ったんですけれども、朝晩、御祈念を、一生懸命させて貰う。ね。そして、お願いさせて頂きよったげなら、これが御神願と言うのでしょうかと言うのです。日本刀一振りを頂いた、刀です。次には、御神輿を担いでおるところを頂いた。どう言うことでしょうかと、こう言うのです。神様には、お願いをしとるから良かと言うだけではいけん。毎日参りよると言うだけでもいけん。どこまでも、神様に通うためには、一心が要る。真剣な心で願わなければいけません。ね。私は、日本刀の一振りを頂いたというのは、真剣と言う意味だと思うです。同時に、信心にはね、やはり、勢いが要る。ちょうど、御神輿さんを担いで、わっしょい、わっしょいで、あの、神様をこう担ぎ出すわけですよね。行橋地区には、沢山のご信者さんがおられるから、さぁ今日は、合楽の月次祭、皆さん、お参りしますよと、いわば、わっしょいわっしょい、声がけをかけてくるような心でね。そういう気持ちで、もう人は揃わんでん、どうでん、もう自分達で参ればといった様なものじゃなくて、もうそれこそ、御神輿を担ぐような心で、ね。行橋地区から、わっしょい、わっしょいで参ってくるようなおかげを頂いたら、もう神様が、ね。躍り出てくださるようなおかげにもなるだろうと、申しましたことでございますが、ね。お互いの信心の内容としてです。一日を、いうならば、良いこと、悪いこと、全てをおかげ、苦しい時には修行として、修行させて頂いたお礼を申し上げれる信心。ね。その内容は、一心を貫く。神様一心と、いわゆる、真剣に、神様に心を向ける、ね。心が元気で、生き生きと、賑やかに、さぁ今日は、お月次祭ぞと、例えば、一家中ででもです。今日は少し、仕事も早く打ち切って、お夜食も、少し早くさせて貰うて、さぁ一家中でお参りするぞと、一家中で御神輿を担ぐような心でと、こう言うのです。こういう心になってくると、おかげが頂ける。いわゆる、神様が、躍り出てくださるようなおかげにも繋がってくるでしょう。ね。
私は、今朝から、皆さんに、受けものが悪いと、おかげが漏るぞと仰せられるが。お願いしてもお願いしても、おかげが頂かんなら、絶対、おかげの受けものが悪いからです。ね。始めの間は、おかげの受けものが良かろうが、悪かろうが、ただ、それこそ、お取次ぎを頂いて、お願いをして、治らん病気が治ったり、開けんな筈の道が開けたりと言うようなおかげも下さるけれども、ね。段々、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと仰せられますから、ね。願って、おかげは頂くけれども、次には、御道の信心は、理解申して聞かせですから、理解を頂かなければならない、御理解を頂かなければならない。そして、心を開いていかなければならない。そして、有難くならせて頂く稽古をさして貰わなければならない。その、有難くならせていただくための手立てというものが説かれるのですから、それを、恵城じゃないけど、守らなければ、ね。人を、何時も思いよらん。言うことは聞きよらん。しっかり勉強せにゃ、勉強せにゃと、また小言を言われる。また怒られる。ね。ならば、おかげが頂かれておらんのは、怒られておるような気持ちで、それこそ、気付かなければいかんです。受けものが悪いから、おかげが漏ってるんです。
先ほど、福岡の高橋さん達が、親子三人で、今日は、参っておられますが。あそこも、私も確かに、見た事があるばってん、お店の、あの一部屋に、大きな大黒様が、お父さんが、まぁだ、大阪の時分に、ある彫刻屋に、わざわざ、作らせておられるのが、そこの一間にお祭りしてあります。ところがもう、どうか、器量が悪いし、妙な大黒様じゃから、あんまり好かんわけです。ところが、そこで、ちょっと、かしいしてあげたりしておると、この頃その、まぁ、こう、何と言うですか、怖いお知らせを頂いたらね。なんかその、大黒様から、こう起こされておるというかね、あの、襲われるち言うたかな。そんなのになるんだそうですね。金縛り、それが、高橋だけじゃなくて、奥さんも、そうだそうです。ね。だから、その大黒様を、もう一遍、合楽に持って来てから、その御神意を入れ替えて貰うたらどうじゃろうかと言うて、まぁ夫婦で話したといった様な事です。けれども、私は、申しました。例え、大黒様と名がつきゃ、合楽の人達は、親先生と頂くでしょうがと、私は、熊谷さん方の大黒様を見てご覧なさい、もう、こんくらいばっかりの、銅で作ったつの、妙な顔して、気色の悪か大黒様ばってん、あーた、そうにゃ、あそこん大黒様は聞かっしゃるげなばいち。はっはは、頂き方が違う。こげな大黒さん、こげな器量の悪か大黒さんち、何時も思いよるけん、大黒様も腹かいてござる。(一同笑い)それで、わざわざ、持ってくることは要らんけん、やっぱり、器量は悪かったっちゃ、大黒様と思うて頂きなさいと、私は、先ほど、まぁ申しましたことですけれどもね。そういう、おろそかな心が、やっぱり、おかげの受けものに障るのじゃないでしょうか。ね。
ですからね、とにかく、まぁ、おかげが受けられんのは、受け物が悪いからと、いうなら、悟らせてもらって、ね。いよいよ、ね。あれもおかげ、これもおかげと言える、思えれる、一つ信心を頂きたいと、こう思います。ね。そして、今いう、真剣でなからなければならない。いうならば、神参り、信心と言うのは、ね。言うならば、御神輿様を担ぐような、なんか、こう、わっしょい、わっしょいと言うような、そのものがね、このおかげを頂く一つの、まぁ、手立てと言うでしょうか、まぁコツのようなものですね。さぁ、お月次祭じゃけ、自分だけ参ろうじゃなくて、さゎ今日は、お月次祭ぞと、ね。家内、子供にも、言うて、何かその、こう気持ちが揃う、こう、打ち立って来るような心です。ね。そういう心にならせて頂くおかげを頂きたい。
今日は、私、阿倍野の伊藤先生のことを、まぁ何時もお話をするんですけれども、これは、恐らく、合楽のお話の出る限り、伊藤先生のお話は出るだろうとこう思う。もう、八十幾歳で、こう一週間ぐらい前、亡くなられたという事を聞きました。今朝から、朝の御祈念に、御霊様のほうで、伊藤コウ先生が、もう、ニコニコと笑うて、こう、上半身の感じで頂いたんです。それで、今朝、その伊藤先生のお話を聞いて頂いて、いわゆる、受けものが悪いと、おかげが漏るという事は、先生の場合は、どんな場合であっても、ね。喜びで受けよう、おかげおかげで受けて行こうと決心されたお話を、今日、させて頂いたわけですけれども。ね。私は、今日、朝、あちらへ下がらせて頂きましたら、家内が、今日私は、びっくりしましたと言うんです。どうしてやと言うたら、今朝、御神前に出るために、あの、髪をこうやってすき流しよった。そしたら、急に、あの伊藤コウ先生のお姿を頂いたち言う。例えばね、私が、伊藤先生のことを、まぁ褒める称えるというでしょうか、称える。それを、伊藤先生が喜んでくださったのだろうと、私は、家内と話したことでございました。そんなわけでしたから、今日は、伊藤先生のご神前を中心にして、言うなら、おかげの受けものと言うのは、どんな場合であっても、おかげおかげで受けていく喜びの生活に入ろうと、一身発起しなきゃいけない。ね。
これは、泉南教会という教会の先生のお話で、大変、伊藤先生に傾倒しておられる方がです。が、御本部でお話をなさった。そのお話が、教報に載っておったことでございますから、ね。これは、本当なお話しに違いないと思うんですけれども。十八歳の時であったという。落語を聴かれた。ね。ところが、その、継子、継母の、言うならお話、継子いじめのお話であった。ところが、いじめられるほうの子供が、どういう風に言われても、いじめられても、有難い、有難いで受けていく。例えば、もう、お魚一切れ出すでも、頭、ほんな頭だけ、身も何もないところを、こうやって出す。と、お母さんが、私に、人の頭にもなれよ、人の頭にもなれよと言うて、頭の所をつけてくださる。私は、今朝、皆さんも聞きよりなさったでしょうけれども、こんな話をさせて頂いたら、胸が詰まって話せなかった。それは、落語家が話した話なんだけれども。実際は、それが本当なのだから、私は、神様の心に響くんだと思うんですよ。ね。だからその、頭をつけてやっても喜ぶから、今度は、尻尾だけを付けて出す。もう大阪辺りでは、魚の尾と言うんだそうですね。尻尾とは言わん。ね。それで、その子供さんが、お母さんが、それこそ、王にもなれよと言うて、尾を付けてくださると言うて喜びよる。それで、もう、姉さんは、いよいよ、腹立ててから、もう、もやもやしてから、真ん中の良かとこを出したち言う。そして、自分のような者に、こんな美味しいところばっかりを付けて下さってと。もう、どちらへ転がしても御礼であり、喜びであると言う、まぁ笑い話なんでしょう。
その笑い話を聞かれた時に、伊藤コウ先生、私の生涯は、これで行こうと決められたち言うんですからね。おかげ頂く人は違いますよ。どんなに、道理に基づいたお話を、繰り返し繰り返し頂いても、それを、聞こうともしない人が沢山あるのです。これでは、おかげの受けものが出来るはずはありません。伊藤コウ先生は、それを聞かれた時に、私の生涯はこれで行こうと、腹に決められて、もう、それこそ、ね。決して、楽な事ばっかりはなかったでしょう。あれほどしのお教会、とにかく、月々、御本部参拝が、二千名ち言うんですからね。合楽教会が、千人参ると言いよるけれども、毎月、あちらでは、二千名の御本部参拝がある。ね。他に、別に大したお話をなさるわけでもないようですけれども。ただ、伊藤コウ先生の、一切を喜びで受けるという、ね。信心姿勢と言うものがです、崩されなくて、それが続けられたときにです。もう、それこそ、伊藤先生のおかげをいただきまして有り難うございますという。
その、これはもう、私は、初めて、もう二十数年も前に、御本部で参拝をさせて、合楽から、まぁその時分、二三十名の方だったでしょうか。お参りをしておるところへ、どんどん、どんどん、団体が入ってきた。もうとにかく、あのお広前が、一杯になってしまった。前のここの所を、取り巻きの先生方、五六人の人と一緒に、ね。もう、それこそ、沢山なお初穂を持って、まぁだ、三代金光様のとき、出られた。どこの団体じゃろうかち言いよったら、あれは阿倍野げなと言うことを聞きました。私共は、ここの御結界がある、その辺の所に、一団、合楽の者だけ居りました、椛目の時代です。そして、そこで、お届けをされる模様を、一緒に、こちらから拝まして頂いておりましたら、金光様、おかげを頂きまして有り難うございます。もう、その一言の、もうそらもう、千両役者でも言えまい。もう、本当にこれが有難いというのであろうと思われるような有難さ、もうそれだけでした。私は、その時分参っておった信者さん方に、あの、今の有り難うございますを聞いたかと。ね。あれが、いわば、泉尾の教会じゃない、阿倍野教会の御比礼の元になっておると申しておりましたが、ね。ですから、そういう意味で、私は、阿倍野の先生に、まぁ、傾倒して、傾倒したと言うかですね。まぁ、本当に素晴らしい先生だと、こう思うておりました。
だから、こらもう、十年にもなりましょうか、その、高橋さんを同道して、もう、その朝、頂きましたから、もうその日の内に、飛行機で、大阪へ参りました。そして、泉南教会に一晩泊まって、それから、阿倍野の先生とお会い致しましたが、その時でもそうでした。ね。泉南の先生が、合楽の教会長が、こうやって、先生にお会いしたいと言うて来とりますと言うて、前の晩に、電話を架けておったらしいんです。ね。そしたら、先生、わざわざね、向こうのほうから、出かけて来て下さった。ちょうど、その、私共が行った日が、あちらの五十年の記念祭であったそうです。それを知らなかった。だから、記念祭の御礼に、親教会の京都にお礼参りをせんならん、ね。まぁ、来て頂いても、お会いが出来んとは失礼だという事ではないでしょうか。まぁ、先生のご信心でしょうが、ね。わざわざ、泉南まで、お出でて下さった。で、あちらで、まぁお会いをしたのが、正式に先生とお会いした始まりでございましたがね。そらもう、私共の、まぁ有難いというのとは、もう、だためが違う。足元にも寄り付けないような、有難い、有難いのかたまりのような先生であったと思いますが、ね。その証拠に、あれだけの御比礼が輝いた。言うならば、そういう、有難い、有難いで受けられる、受けものが、水も漏らさんおかげとなって、沢山の人が助かることになった。ね。それは、あれだけのことを、ご主人と言う先生は、甘木のお弟子さんであったそうなんです。ですから、甘木も親教会、京都も親教会という様なお教会です。亡くなられた、もう早く亡くなられておりましたから、まぁ大変、難儀があったでしょうけれどもです。だから、一切を、もう、この手で行こうと、もう、この一切を、喜びに喜んで受けて行こうという中には、もう、喜びでは、受けられないという様な事もあったに違いはありませんけれども、今日の、ほんなら、御教えを頂きますと、ね。いよいよの時には、ままよという心の内容、ままよとは、死んでもままよのことぞ。十分の徳を受けようと思えば、ままよをという心をと言うのが、今日の御理解の最後の所にございます。ね。とても、これは受けられませんと言う様な時ほど、お徳を受ける時だと心得て、ね。それを、有難く受けていくという生き方が、水も漏らさんおかげという事になり、おかげの受けものが、完璧なまでに、立派になられて、あの御比礼が輝いて、沢山の人が助かることになったんだと思うです。ね。
だから、合楽では、御理念によるとです、ね。何故、喜ばねばならないかと。どんなに苦しいこと、いやな事と言うても、よくよく分らせて頂きますと、ご神愛以外にはないのだと。ね。それを、最近では、一切神愛論と言う言葉を使って、お話をしております。その一切神愛という事を、ね。論理立てた、ね。道理に基づき、理屈に基づいて説いてあるのが、合楽理念です。ですから、合楽理念の場合は、それが、その気になれば、どんなに血の涙の出るような問題であってもです。合楽理念に基づくと、ね。おのずと頂けるようになってるんです。だから、それを、覚えたからと言うてです、ね。ほんなら、結果においては、いわば、阿倍野の先生じゃないけれども。有難い、有難いで受けていくと言うことなんですけれども、合楽の場合は、なぜ有難く受けねばならないのか。有難く受けなければお粗末になる、ご無礼になると言うて説くわけです。ね。だから、御理念のマスター、そして神愛論と言えれるだけの、一切、私共の行く手には、あるものは神愛だけしかないんだと、確信を持って、そのこと、その事を、喜びで受けて行こう、有難く受けて行こう。いや、それは人間、生身を持っておるから、痛いこともありゃ、痒いこともあるけれども、一日、今日は苦しい一日であったと言うこともあるけれども。最後に、御神前に額づかせて頂くときには、今日も、大変苦しゅうございましたと。けれども、その苦しいことが、大きければ、大きいだけ、また、苦しい修行をさせて頂きましたと、それを苦労に終わらせず、修行で受け止めていく手立てが、合楽では説かれる。ね。
そこへ、神様が、そういう中にあっても、感動を送ってくださる。喜びを送ってくださる。ね。折角、信心させて頂くのですから、ね。受けものが悪ければおかげが漏ると仰せられるのですから。その受けもの作りに、本気にならなければ駄目です。言うことを聞かなければ駄目です。ね。恵城じゃないですけれども、おかげに気が付いた。二年生になってから、まだ、一遍も、お父さん、お母さんから、僕は怒られてないよち言うんです。そらぁ、お父さん、お母さんの言うことを聞く。ね。勉強せろ、勉強せろと言われんでも、ちゃんと、僕が勉強するから、ね。怒られんで済んだんだ、という様にですね。ね。言うことを聞かぬ子は、もう神様でも仕方がないと仰るんですよ。ね。いよいよ、おかげの受けものを、言うならば、小さい受けものよりも、いよいよ、偉大な、大きな受けものを作るために、いよいよ、馬鹿と阿呆にならにゃいけません。大きな信心といや、いよいよ、馬鹿と阿呆になることです、ね。しかも、大きい受け物がね、そこから漏ったり、そこからこぼれたりする様な事じゃいけません。それこそ、水も漏らさんような内容と言うのは、ね。結局、ね。一切神愛と、もう確信して、それを受けきっていくことだという風に思います、ね。
どうぞ、良いおかげの受けものを、いよいよ作らせて頂く。一心を立てて、それこそ、御神輿を担ぐように、神様を担ぎ出すような、賑やかな心で、わっしょい、わっしょいと言うような心である時には、もうそれこそ、どんな事があっても、それを踏み倒していくような元気な心が生まれてまいります。ね。そういう心掛けで、一つ、いよいよ信心を、本当なものにして行かなければいけません。合楽にも、幾らもおられます。もう本当に素晴らしい、一生懸命に、熱心に信心しござったばってん、年をとるにしたがって、不平不足の多くなる人があります。もう、親の言うことを、全然、教えは聞かずに、ただ、参ってきたばっかりの人です、必ず。だから、親の言うことを聞いて、守っていくと、その教えが、血に肉になってまいりますから、それこそ、年をとるにしたがって、有難うなって来る。信心の位が付くのじゃと仰る様に、はぁ、これが位と言うものだろうかと思う様になる。この心で、あの世行きするなら、あの世も、これは、まんざら悪かとこじゃなかと、こりゃ、有難い、有難いで、私は、いわば、おかげがいただけるようになってくると思うですよ。ね。ぎりぎりの所は、やっぱりそうです。そういう姿勢感が生まれてくるような、一つ、おかげを頂きたい。それには、どうでも、ね。受けものが悪いとおかげが漏ると仰る。何時も漏らしてばっかりおるような信心ではなしに、ね。いよいよ、水も漏らさんおかげを、ね。頂きたい。そして、どうぞ、今日、私は、この、孫の言うたことを芯にして聞いていただいたんですけれどもね。先ずは、言うことを聞かなければ、駄目だと。こらこらと、何時も叩かれたり、さぁ勉強せろ、勉強せろと言われて、未決こぼして、遊びやら、悪かこつばっかりするごたっちゃ、何時までたっても、ね。まぁ、本当のおかげにはならないと思います。ね。そういう信心内容を持って、いよいよ、おかげの受けものとして行きたいと思います。どうぞ。